かにみそにっき

作家。美術書などを中心に、本・絵本・映画についてのメモ。

デビッドボウイ

1/11 デヴィッドボウイが亡くなくなりました。

勝手に、あと20年いや30年は生きている存在だと思っていました。

初期のベストアルバム1枚と、「Space Oddity」しかきいた事がないので

到底熱心なファンとはいえませんが、それでもここまでショックが大きい

自分に驚いています。

 

大学の講義に「音楽史」というものがあり、そこでロックの歴史を追った

BBC作成の映像ドキュメンタリーを観て、グラムロックと彼の生い立ちを

学んだのが彼をはっきり認識したきっかけです("学ぶ"とは誠に変な出会いですが)。

広い講義室で「heroes」を耳にした時、涙腺が緩むような感動を覚えた事を

いまでもはっきりと覚えています。それは聴いたというより映像越しに「体感」

したような感覚。

 

ライブで観た事もないし、新譜を追っかけもしなかったけれど

訃報をきいたときの絶望感と同時に、あの日と同じような涙腺の緩みが

襲ってきた事が不思議でなりません。地図から都市が一つぽっかりと消滅

したようなあっけなくも途方もない虚しさ。あまりに偉大故に普段特別認

識しない人物が亡くなると、一時的ではありますが、視野がぐぐっと広が

って日常を遠く遠く離れて世界を鳥瞰するような解放感にも包まれます。

すぐまた日常に巻き戻される前に、ささやかな抵抗としてここに文章を

綴りました。

智恵子抄

智恵子抄

 

彫刻家であり詩人の高村光太郎が綴った詩集です。

父親は彫刻家として有名な高村光雲(「老猿」という猿の彫刻が有名)。

国語教科書的には、「僕の前に道はない」の「道程」が有名な光太郎*1

ですがこの智恵子抄は妻・智恵子と結婚する前から彼女が病気になり死別

した後までに書かれた詩を集めたものです。

 

この詩に興味を持ったのは、一昨年吉祥寺シアターで公演されていた

暗愚小傳(あんぐしょうでん)という舞台演劇。

高村光太郎家を舞台に、智恵子が元気だった新婚時代から死別後までを

四部構成で描いています。戯曲ノートを読むと、作者の平田オリザは実は

高村の詩は一部を除きあまり好みではないと書き述べているのですが。

 

さて、そんな経緯で手に取った”智恵子抄”。

率直な感想を述べると、オリザさんが述べた通り詩集の詩の部分はあまり

惹かれるものが少なかったです。それより興味を惹かれたのは、高村が智

恵子の死後2年経った後に記した「智恵子の半生」。気持ちの整理がある

程度ついたのか、丁寧に智恵子の半生が綴られていて、読んでいると胸を

刺されるような気持ちになりました。それだけに死後に書かれた詩(「智

恵子の半生」執筆以後の作品含む)は詩に落としこめていないような感情

の浮つきを感じてしまいました。詩人への憧れ(詩人なのですが……)を

作品から感じるのですが、この人の芸術表現の真骨頂はやはり造形作品の

方にあるのだなと再認識してしまいました。

 

さらに興味を惹かれたのが、この詩集の最後に収められた詩人・草野心平

が書き記した「悲しみは光と化す」です。これは生前の二人を知る草野心

平が、本人の文章からは伺えないような智恵子を失う(かもしれない)事

へ動揺する光太郎の心情を第三者目線から捉えています。、この詩集が補

完されたような思いになりました。

 

この文章には追記があり、3日後に高村光太郎は亡くなり草野心平が載せ

た追悼詩が収められています。

不世出の巨人はとうとう白い無機物になった。

で締められたこの文章を草野心平なき後の現代によむと、「智恵子抄」に

は追悼のおもいが入れ子のように入っているようで、いつの間にか読者で

ある自分がその入れ子の一部であるのだと思わされるのでした。

 

  

智恵子抄 (280円文庫)
智恵子抄 (280円文庫) 高村光太郎

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火宅か修羅か・暗愚小伝―平田オリザ戯曲集〈3〉
火宅か修羅か・暗愚小伝―平田オリザ戯曲集〈3〉 平田 オリザ

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*1:美術教科書的には「」や「鯰」が有名です。「鯰」は智恵子抄の中でも出てきます。

献灯史

多和田 葉子の本を初めて読みました。

 

表題作『献灯史』は、年相応の衰えを持ちながらも老人世代が現役で活躍し

その曾孫に当たる若い世代は虚弱で老い先の短いディストピアが舞台。

世界中が鎖国し、日本では外来語が次々と禁止され昔(=読者にとっての現

代)に使われた言葉も全く異なった意味で使われています。社会通念どころ

か、老人は知識が豊富、若者は元気といった生物学的な"常識"すらひっくり

かえってしまってた世界。

 

そんな世界で、主人公の「義郎」は身一つで曾孫の「無名」を育てています。

「無名」を生きる支えとしながらも、明日死ぬかもわからない曾孫への心配

事がつきない義郎に対して、達観した新世代の中でもとりわけ聡明な「無名」

は、海外へと見聞を広める「献灯史」の候補として育っていく......というお話。

 

収録された他の短編もですが、3.11震災以後の「絶対の基準が崩れ去った」

世界を描いています。あまりにもストレートすぎて、一冊の本としていささか

くどく感じるところもありました。けれども、震災直後に日本全国が包まれた

あの「非日常感」を節々に感じます。真空パックにして鮮度を保ったまま出す

のはルポタージュやノンフィクションの仕事だと私は思います。小説はそこか

ら羽を広げる存在。『献灯史』は、一度は「絶対が崩れた」が今一度立ち直り

つつある日々(それを"風化"とも言う)に対して、社会や政治ではどうしよう

もない自然現象もないまぜにして価値感のひっくり返った世界を提供している

のです。面白いのは、そのディストピアな世界のルールが徹底していないとこ

ろ。外来語は禁止されているがパンは平気だったり、政治も国家もバラバラぐ

ちゃぐちゃなのに、登場人物達は奴隷のように生きているどころか、それなり

に順応して「日常」を過ごしてしまっています。その「日常」は時にほのぼの

して親近感すら覚えます。そのゆるさは決して世界観の作り込みの甘さではな

く、むしろリアリティを作り出す要素になっているように感じました。とんで

もない世界だけれど、はて、それでは本を閉じた「現実」はどれくらい「正常

」なのだろうか......

そんな問いかけを投げられたようでした。 

 

献灯使
献灯使 多和田 葉子

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やがてこころの底ふかく沈んで 「考えの整頓」の感想。

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 NHKEテレのピタゴラスイッチや、2355,0655でおなじみの

クリエイターの佐藤雅彦さん。(2355って何?という方は今すぐ検索!)

この本は、彼が暮しの手帖で連載している「考えの整頓」というコーナーが

書籍化されたものです。(2014年4月現在も連載は続いております。)

 

  日々の暮しの中で発見したちょっとした出来事・疑問を取り上げ

ハッとする視点から観察をして、ドキっとする発見をする。

「毎月新聞」「プチ哲学」など過去に出版された本にも共通する

“雅彦節”と(勝手に)命名したくなるような、心地よい読み味が

特徴です。

 

  • おまわりさん10人に聞きました
  • 広辞苑第三版 2157頁
  • 板付きですか?
  • 一敗は三人になりました

 

 などなど意味深なタイトルが多いのですが、読んでいくとタイトルの意味が

するするーっとわかっていき、最後には小さな爽快感とささやかな幸福に

包まれます。

 

 佐藤さんの視点が描く世界は何ともミニマムで、全てが

箱庭の中で行われているかのような居心地の良さは、野心を持って遠くばかりを

気にしてしまったり、刺激を求めるあまり身の回りの出来事が退屈に感じて

しまう、そんな現代病にむしばまれた心にじーんときます。

面白い事はこんなに身近に溢れているんだという喜びと、それを拾うも捨てるも

自分の気持ち次第だという事を再認識させられます。

 

おまわりさん10人に聞きました より一文引用します。

世の中に製品として流通しているモノがいくら多くとも、

我々人間の暮しの多様性を網羅できる訳ではありません。

そこに個々人の知恵と工夫が入り込む余地が多く生まれます。

その工夫が成功した暁には、程度はどうあれ生活環境や

仕事環境がより便利なものに変わるのですが、

私が好きなのはその便利さはもとより、それを考えついたり

行ったりすること自体が、とても人間的で、暮らしを生き生きさせる

ということなのです。

 

私が一番心に残ったのは、長年愛用していた万年筆が壊れてしまったお話。

プロの元へ修理に出したものの、どうしても今までの書き心地は戻りません。

佐藤さんはその時、万年筆がいかに「自分の殻の内側」にいたのかを気づかされます。

以下、"この深さの付き合い”より引用。

 

 

この万年筆とは、ある「深さ」で付き合ってきたんだな、

ということが、あのなめらかさを失い、身に沁みて分かったのである。

妙な言い方になるが、口がきける同士ではなかったので、お互い、何も、

そのことについて言葉にして語り合うことなど無かったし、

付き合い方もお互いが接している手や指先周辺だけのことだと思っていた。

しかし、字や線を書く時に受けていたあの有り難い感触を享受していた

のは、自分の内のやや深いところであったのだ。

 

作り手ー使い手というモノを介しての人間関係すら越えた、それが無くなると

大切な人を失ったような悲しみをもたらすほどの モノ自身への慈愛。

誰しもがこの感情へ共感できるエピソードを持っているのではないでしょうか。

 

 

佐藤さんの文章の方向性は、暮しの手帖が掲げる一文を思い出します。

以下その文章を引用して〆にしたいと思います。

 

これは あなたの手帖です

いろいろのことがここには書きつけてある

この中のどれか一つ二つはすぐ

今日あなたの暮しに役立ち

せめてどれかもう一つ二つは

すぐには役に立たないように見えても

やがてこころの底ふかく沈んで

いつかあなたの暮し方を変えてしまう

そんなふうな

これはあなたの暮しの手帖です。

 

 

天風浪々 絵と書の対話 を読みました。

             天風浪々―絵と書の対話
               天風浪々―絵と書の対話

 

書家の榊莫山と、画家の元永定正の対談本です。

両人とも近年亡くなられております。

榊莫山の方は、僕はあまり詳しくないのですが

元永定正の方は大がいくつついてもおじけづかないほど好きな作家です。

(もこもこもこ、などの絵本作品の方が有名かも知れません)

そんな元永さんの文章が一冊の本になっている唯一の書物がこの

天風浪々で、ワクワクしながら読みました。

 

絵と書の対話とありますが、そんなに堅苦しい内容ではありません。

お二人とも伊賀の出身で、方言でしかも唐突な身内話から始まるので

そういう意味では少しとっつきにくいなぁと思いながらも、先へ先へとすすめると

80年代以前の公募団体が力を占めた日本の美術の実態が浮かび上がってきます。

 

僕の目当てが元永さんだったのでそちら贔屓での感想ですが

本当に純粋な芸術家だったのだなぁと思いました。

 

どこにでもあるような作品をつくっても自分の存在はなんにもない。

自分の存在が人類にちょっとでも、退屈を紛らわすあるいは楽しむような空間を

つくるには誰もやっていないことを考える

 

“自分の哲学”をしっかりもった言葉にはこちらも何だか励まされてしまいます。

何より楽観主義なところが気持ちいいです。(これはお二人ともですね)

そして、日本の美術(書)の教育に対する嘆き。みることよりも描くことに重きをおいて、良いものをみる感覚が磨かれずに大人になってしまう。

20年以上前の本なのに残念ながら改善されていないように思います。

(絵は“うまく”かくもの。このあたりについてはさらに20年前、岡本太郎

今日の芸術でやっぱり嘆いていました。優れた画家の視点は

本質を捉えるのが上手いですね。)

 

日本は外のものばかり飾りたがり、自分の国の古いもの(それも

外から賞賛されたもの)ばかり誇りに思う。

でも日本の“今”のものにももっと目を向けてあげないと、評価を受けずに

自身がなくなって萎んでしまう、

 

この辺も今も尾を引いている気がします。

 

 

型破りなお二人にはもっともっと長生きして欲しかったと思える一冊です。

榊さんか元永さんの作品に興味を持った方はぜひ読んで下さい。

 

関連本 

今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)
今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)

人間は言語創造するいきものだ 記号論への招待

記号論への招待 (岩波新書)

記号論への招待 という本を読みました。
我々が普段用いている記号の中で最も身近なものであり、決して切り離すことの出来ない
“言語”を主な題材として記号の持つ役割、性質を読み明かしていきます


膨大な記号論への旅に我々を誘ってくれるとても面白い本だと思いました。
この本をざっくりまとめて紹介できる技量は僕にはないし、
聞き慣れない専門用語を出して堅苦しく紹介するよりは、


「なんで、あの人の些細な一言にこんなにも縛られて(またはうかれて)しまおうのだろう?」
「詩って何?なぜ時として論理的な書物には抽象的な詩が挿入されるのだろうか?」
「なんで子どもってあんなに突拍子もないことを言うのだろう?」
「キラキラネーム、DQNネームってたかが“名前”なのになぜあんなにも非難されるの?」
「童話や民謡って似たようなはなしが多すぎない?」


こんなたぐいの
言葉に対する素朴な悩みの一つでも持っている人に、
ちょっとしんどいコースではありますが、頑張って登山してもらいたい一冊
です。


あまり出来の良くなかった(そして今も)僕は、高校生の頃にこの本に一度出会いましたが
一度挫折しています。なんで挫折したのかなぁと考え直してみると、内容の難解さというより
上記にあげたようなもやもやした疑問もなく手にとったからかなぁと思いました。


あまりにも多角的に読めるこの本は取っ付きにくいかもしれませんが、
随所随所に素朴な疑問に対する仕組みや構造が書かれていて
それは時に、自分の知らない世界の仕組みをしってしまったような
途方もない気持ち
にさせてくれることだろうと思います。


本書は世界の見方が今までとちょっとずれる広大な記号論への“招待状”にすぎません。
もったいないと思うのは、参考文献が記されていないところでしょうか。
途方もなさすぎて次の一手に困ってしまってはしょうがないですし。


僕は言語学や記号論の専門家ではなく、かじった(かじっている)程度なのですが
下記の本なんかも読みやすいかもしれません。言語の方面ですが参考までに記しておきます。



詩とことば (岩波現代文庫)
詩とことば (岩波現代文庫)荒川 洋治

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詩人の荒川 洋治さんが詩について語った一冊。
詩の世界に興味はあるけどよくわからないよ!という人に向けて
丁寧に丁寧に、“やさしい”言葉で綴られています。



言葉と無意識 (講談社現代新書)
言葉と無意識 (講談社現代新書)丸山 圭三郎

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言語学者、丸山圭三郎氏の著作。
まさに知の冒険。ゾクゾクします。

創造する人達への愛の鞭 ブルーノ・ムナーリ 芸術家とデザイナー

芸術家とデザイナー

ブルーノ・ムナーリは多彩な顔を持った作家です。
画家、グラフィックデザイナー、絵本作家、芸術家、詩人etc......


後期未来派の1人、なんて説明されても、


「派?は?」


てな感じでしょうが、
“暗い夜に”,“霧の中のサーカス”
などといった絵本作品は
知っている方も多いのではないでしょうか?

きりのなかのサーカス



そんな彼が1970年代に記したのが、この”芸術家とデザイナー”という本です。
よくごちゃまぜにされてしまう、芸術家とデザイナー
その違いは?共通点は?それをブルーノなりの視点で解き明かします。

芸術家が自身の様式(つまり”個性”ですね)をそそいだ世界に一点だけの椅子。
これは今や誰も座らない。一方デザイナーがつくった
機能を重要視した椅子は今でも人々に使われ続けている。

このような視点で芸術家の傲慢さと不当なまでのデザイナーの扱いに
メスを入れていくブルーノ。これが40年前に書かれた書物だとしても、
なんら世の中は変わっていないのだなぁと驚愕です。



彼は決してデザイナーの優位性を説きたいのではなく、芸術家を卑下したい
わけでもありません。ただ、両者に孕む疑問、矛盾をあぶり出し、
今一度再考したいのです。どっちが素晴らしいのではない。どちらもがおかしいし、
また同じくらい素晴らしいのである、文章から溢れるそんな彼の視点は、
彼の全てのクリエイターに捧ぐ”愛の鞭”なのかもしれません。